5月のゴールデンウイークは、私の実家へ家族で帰省しました。子供たちのそれぞれの進学の報告と震災の見舞いを兼ねて・・・。
盛岡市は、津波の被害はないのですが、私の実家でも建物の被害が少しありました。また、4月中旬は関東地区で余震が多く、東北では少なかったのでず、帰省中は毎日のように余震が続き、また東北での揺れが増えています。首都圏のテレビでは見られなくなりましたが、東北地方ではまだNHKは、画面に生活情報が流れています(福島県では、各地の放射性物質の測定値が表示されているようです)。
5月4日に、少し大きなクルマを借りて、私の両親を含め6名で被災地を見に行きました。亡くなったいとこの家族は盛岡へ避難していますので、父の知り合いのいる釜石市へ、そしてそこから大槌町・山田町・宮古市へ抜けるルート。
見物みたいな感じで気が引けましたが、ニュースで被災地の方の中には、休んでいた店舗を再開しているところもあり、ボランティアでなくとも是非被災した様子を知るためにも現地に足を運んで欲しいという意見もあるようで・・・。
さて、最初の訪問地は釜石市。私の母が戦時中釜石の鉱山で事務員をしていたこともあり、新しくできた新仙人道路ではなく、旧道経由です。花巻から遠野経由・・・。内陸方面から三陸へのクルマも多いのですが、三陸からのクルマも多いです。
釜石市は、新日鉄の街。かつては人口が9万人(今は4万ぐらい)を越えたこともある街。山と山の間に細長く広がっていて、内陸部はかつては新日鉄の社宅が多く県立病院や県立高校はこちら側に。海からは離れているので、津波の被害はまったく受けていません。以前の市街地がそのままです。コンビニの品物がないのが震災の被害を物語っている・・・。釜石駅とその前にそびえる新日鉄の工場まではまったくそのまま。そこから甲子川を渡り、海側は津波で壊滅状態。こちら側は港町となり、繁華街です。私が仕事で岩手を担当していた時に宿泊したホテルもこの付近ですが、1~2階は津波の被害を受けたようで、休業状態。アーケードの商店街がアーケードの上まで川のような津波の流れになった様子がテレビで放映されましたが、まさにここ。最盛期は盛岡市の繁華街を凌ぐほどの商店街だったところだそうです。信号機は消え、応援の他県警察官・自衛隊員が交通整理・・・。
震災から1か月以上経ちかなり落ち着いたとのことですが、がれきの撤去はまだ手つかず。ここは、父の知り合いの家のところです。当人とも会うことができ、写真は了解を得て撮らせていただきました。もう何とも言い難い風景でした。
釜石から北側へ・・・。釜石の鵜住居地区・隣の大槌町もかなりの惨状。
上の写真は、大槌町からさらに北側の山田町の中心部です。山田町はわりと大き目の湾となっていて、普段は絶景の地です。ホタテの養殖もさかんで、時期になるとホタテを焼いたいいにおいがします。ここは、津波が引いた後、火災も発生し街がそのまま無くなったようです。まるで戦場・・・。これらの写真は、付近で作業をしている方にお話しをして撮影させていただきました。
この付近は、JR山田線が通っていますが、線路自体が流されています。JRは内陸から宮古・釜石・気仙沼までは復旧していますが、沿岸沿いは不通です。陸前高田や大船渡・久慈へは鉄道が繋がっていない状態。復旧の見込みは立っていない・・・。国道45号線は復旧していますが、途中途中に、「津波時浸水区間」とあります。山側・海側がありますので、その警告のとおり、浸水区間の街に津波がやってきた・・・というのが現実。
最後は宮古。宮古市も、市役所から西側の内陸部は被害がありません。私のいとこの家は海側・・・。漁港・魚市場・海産物産館のある付近を含め海側が大きな被害です。
平穏な宮古の港ですが・・・。
無事だった宮古駅。
漁業や港湾関係の施設でしょうか・・・。左側の写真にある船は、海から打ち上げられたものです。
釜石から宮古まで・・・、休憩の際に、地元の方に話を聞いて・・・。私達が見たものは、50日後の姿。しかし、この場所で多くの方が津波にのまれて亡くなったことも忘れてはいけません。帰りのクルマの中で母が泣き出し、妻も・・・。家を失い、家族を失い、生活の基盤を失った方のことを思うと・・・。両親に言わせると、「終戦後のよう・・・」とのこと。戦後の復興も長い時間がかかった・・・。この震災でもそう簡単にはいかないでしょう。
私は、どうしても私の子供たちにテレビの映像や写真ではなく、生の様子を見せておきたかったのです。彼らが今後の日本を背負っていくのですから・・・。そう思いながら、盛岡までの帰途につきました。
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